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2016年・5月度座談会御書「開目抄」

二〇一六年五月度座談会御書のまとめ。

拝読した御文:「開目抄」(二三四ページ七行目~九行目)

我並びに我が弟子・所難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいらるべし、天の加護なきことを疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えししかども・疑いを・をこしてみなすてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし

日蓮大聖人は開目抄を佐渡へ島流し(佐渡流罪)にあわれていた最中に、四条金吾をはじめ、その他弟子たちに宛てて認められました。開目抄は日蓮大聖人が主師親の三徳をそなえた存在であることを仰られています。

ここでいう主師親の三徳とは、以下のような意味となります。

①主・・・弟子達を諸難から庇護する徳

②師・・・弟子達に正しい教えを示し導く徳

③親・・・子に慈愛を注ぎ、育む徳

つまり、この日蓮大聖人は主師親の三徳を具えている末法の御本仏であると解き明かされた重要な御文のひとつです。

 

開目抄の由来と目的

開目抄とは読んで字の如く、日蓮大聖人が弟子たちに功徳がすぐに出なかったり、諸天の守りを感じることができなかったとしても疑うことなく、ただ日蓮大聖人の教えを誠実に信じてついてきなさい、との思いを込めて認められた御文です。

 

日蓮大聖人が佐渡流罪に遭われていた事を知り、当時の弟子たちは迷いの念を抱いていたのです。「正しい教えを信仰しているはずなのに、なぜ私たちの師匠は諸天善神のご加護に遭わずに大難に遭ってしまっているのだろう」と疑いの念を抱いていたのです。実際に、弟子たちの多くも投獄・追放などの諸難に遭遇しており、何千人もの弟子たちが退転してしまいました。

 

その状況を見て、日蓮大聖人は開目抄を認められることで「この教えが正しいからそのような難が起きているのである。つまり正しい証拠であるのだから、迷いを捨てなさい(=目を開きなさい)」と激励されているのがこの開目抄となります。

 

開目抄の概要

開目抄の冒頭で、日蓮大聖人は元来多くの信者がいた儒教バラモン教主師親の三徳を示してきたものの、その教えそのものが人々の生命の不平等さを説いていたために限定された三徳であった、と述べられます。それらの外道に対して、仏教の根幹である法華経の文底に込められた"一念三千"こそが成仏の法であると明らかにされています。

 

開目抄の後半では、日蓮大聖人は「法華経の行者が難を受けるのは経文通りである」ことを示されます。そして、「たとえ諸天からの加護がなくとも、末法の世の中にあえぐ民衆を救済するためにこの法を弘め、日本の柱・大船へと精進していくのだ。」との誓いを絶対に破ることはないと宣言されます。また、弟子たちにもどんな難があったとしても信心を貫き通すことで必ず仏界に至ることができると教えられます。結びに、この大誓願を果たしゆく日蓮大聖人こそが末法の民衆救済をする主師親であると示されます。

 

開目抄から学び取れること

・疑う心はやがて信心を破壊する。

一生成仏を目指す過程において三障四魔が競い起こり、三類の強敵は必ず出現します。マラソンのゴールを目指して走っている際に向かい風を感じたり、脚や身体が痛くなってしまったり、登り坂に面してしまったり更には悪天候に見舞われたりとしてしまうように、前に進んでいる人にとって必ず障害となるものが現れます。「なんでこのように障害ばかり現れるのだろう」と思ってしまっていてはゴールへはいつまでたってもたどり着けず、やがてゴールへの歩みすらやめてしまうことでしょう。

 

・純粋な信心で何事も乗り越えられる。

信心を疑わない心を持つことで、いかなる苦難も勝ち越えていく強力な生命力を自らの心から湧き出すことができるのです。たとえ自分がどんなに逆境におかれていたとしても、信心を貫き通すことで自分も周りもあっと驚くような結果を出すことができます。会社で嫌味を言う上司がいて集中することができなかったり、学校で友達から冷たくされてしまったり、どんなに頑張っても結果が出ずに周りからも見放されてしまったとしても、ひたむきに疑うことなく信心に励むことが重要なのです。

 

日本語御書と英語御書の比較

英語の御書(The Writings of Nichiren Daishonin、又はWND)では、この御文は以下のように翻訳されています。

Although I and my disciples may encounter varous difficuties, if we do not harbor doubts in our hearts, we will as a mater of course attain Buddhahood. Do not have doubts simply because heaven does not lend you protection. Do not be discouraged because you do not enjoy an easy and secure existence in this life. This is what I have taught my disciples morning and evening, and yet they begin to harbor doubts and abandon their faith. 

 太字で下線を引いた部分は、"現世の安穏ならざる事"に対応する部分ですが、直訳すると「あなたがで簡単で安全な人生を歩んでいないこと(にやる気を失ってはならない)」となります。安穏は「心静かに落ち着いている様子」となります。この二つの意味を合わせて日蓮大聖人がこの御文を通して伝えたいのは、「簡単に乗り越えられる問題にのみぶつかる人生などなく、またそのような浅はかな人生を求めてはならない」ということではないでしょうか。

 

ゴールデンウィークが明けて、今まで通りの生活に戻った方々がほとんどかと思います。長期の休みで旅行にいったり、母の日で家族とゆっくり過ごしたりした方々もまた仕事や学校が始まることが憂鬱で仕方なかったのではないでしょうか。また、そういう時こそ問題が起こってしまいますよね。

 

私もそうでした。ゴールデンウィークで進めることができなかったプロジェクトのしわ寄せが一気に来た休み明けでした。打ち合わせや締め切りの過ぎてしまったプロジェクト、休み中に発生した問題などの対応に追われて、「あぁ、のんびりした休みの時に戻りたい」と思ってしまったものです。

 

この開目抄の御文を拝して、難しい問題だからこそ私たちは成長できるのであるし、そもそも乗り越えられるからこそ問題に直面するのだと思います。蓮の花が泥の沼から綺麗に咲くように、寒い冬を耐えて春に爛漫の桜が咲くように、辛いことがあっても難しい問題があっても、どんなに周りの人たちから理解を得られずに中傷を受けたりしたとしても、諦めずに祈り行動していくことが必ず幸福につながります。

 

今月もどうか、お互いに支えあいながら成長してまいりましょう。