Les Mis.

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コーヒーと序説 by 寺田寅彦

あらすじ

コーヒーは大多数の人々とって欠かせない飲料として現代人に愛されているが、近代の日本でコーヒーがどのように愛されていたかを知っている人は少ない。この本で述べられている作者・寺田寅彦の自らのコーヒーへの愛情とそれに対する考察を通して、現代に生きる私たちは数十年前どのようにコーヒーが愛されてきたのかを垣間見ることができる。本作品は、作者自身のコーヒーへの情熱を観察しながら、人間の原動力となる哲学や宗教との比較をする論文である。序盤では作者の生きた時代にどのようにコーヒーが飲まれていたのかが述べられている。そこから作者自身にとってコーヒーはどのような存在だったのかを述べる。その中で筆者はコーヒーがある種人々の原動力として価値があることに触れ、哲学との論理的つながりを築く。

 

所感①コーヒーは音楽のように前奏がなければ、まずい。

しかし自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。宅の台所で骨を折ってせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味わうのではどうも何か物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。やはり人造でもマーブルか、乳色ガラスのテーブルの上に銀器が光っていて、一輪のカーネーションでもにおっていて、そうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のようにきらめき、夏なら電扇が頭上にうなり、冬ならストーヴがほのかにほてっていなければ正常のコーヒーの味は出ないものらしい。コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。

この点は私はなるほどな、と思いすべてハイライトしてしまった箇所である。カフェインを多く含むコーヒーの中毒性を忌避することは多い。ストレスを絶え間なく抱える現代の日本人にとって、仕事の合間や休日の昼下がりなどにコーヒーを淹れてリラックスを試みる人は多いのではないだろうか。淹れ方はインスタントでも、ドリップでも、フレンチプレスでも、どのような淹れ方であってもコーヒーの味を区別できる人はなかなかいない。 

筆者である寺田もその一人であった。ただ、ひとつ寺田がコーヒーの味に対して主張することができたのは以上の点である。要旨をまとめると「コーヒーを飲むという行為はコーヒーを飲む状況、淹れ方、食器のデザインや口触りなどすべてを含んで味わい深いものとなる」ということではないかと私は思う。音楽を聴くときに曲の前奏があるように、コーヒーを飲むに至るまでの経緯が前奏であり、コーヒーのカップに口を付ける瞬間がサビ直前のドラムのフィルイン、そして口にコーヒーが流れ込んでいっているその一連の動作がサビ、といえるのではないかと思う。

 

所感②コーヒーに対する愛情から見える、人間の宗教観

酒やコーヒーのようなものはいわゆる禁欲主義者などの目から見れば真に有害無益の長物かもしれない。しかし、芸術でも哲学でも宗教でも実はこれらの物質とよく似た効果を人間の肉体と精神に及ぼすもののように見える。禁欲主義者自身の中でさえその禁欲主義哲学に陶酔の結果年の若いに自殺したローマの詩人哲学者もあるくらいである。映画や小説の芸術に酔うて盗賊や放火をする少年もあれば、外来哲学思想に酩酊して世を騒がせ生命を捨てるものも少なくない。宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈を動かして悔いない王者もあったようである。  芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。

 コーヒーに多分に含まれるカフェインによって人々は興奮し、多量に摂取してしまった場合は中毒に陥ってしまう人も少なくない。寺田はこのコーヒーの中毒性と人々の依存性を宗教に対するにそれと対比して述べている。哲学は、人々の精神の根幹をなすものである。その支えをなくしては、寺田も描写するように崩壊してしまう人も少なくない。コーヒーを飲むという行為をすることで、人々はある種の興奮を覚えて人々は仕事に励むことができるようになる。ある程度の時間が経過してしまうと、人々の脳からはカフェインが不足してしまい、落ち着かなくなったりイライラしてしまう。哲学の場合は歴史を鑑みる限り、自殺したり犯罪に走ってしまう人は多いが、コーヒーが飲めないからそのような行為に走ってしまう人はいない。けれでも、そのような程度の差こそあれ、コーヒーに対する愛情と人間の宗教観は、その人間の行動に与える精神に影響する面では大きく関連しているのではないか、というのが筆者の論点だ。

 

私もコーヒーは毎日欠かさず飲まなければ生産性の高い仕事はできないし、リラックスもできない身体となってしまっている。ここまでコーヒーについて深く考えられるとは思わなかったが、この本を読んでコーヒーが人々に与える影響に関して考察することができた。おいしいコーヒーを飲みたくなってきたぞ。

2016年・4月度座談会御書「兄弟抄」

四月度座談会御書のまとめ。

拝読した御文:「兄弟抄」

此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる乃至従う可らず畏るべからず之に従えば将に人をして悪童に向かわしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云々、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ

兄弟抄は池上兄弟(兄:宗仲、弟:宗長)に宛てられたお手紙です。池上兄弟は日蓮大聖人が宗祖である日蓮仏法の草創期から入信した兄弟でした。池上兄弟の父は鎌倉幕府に仕える有名な職人でした。父は池上兄弟が日蓮仏法を信仰することを強く反対しており、ある時兄の宗仲を勘当します。

 

この勘当とは、現代では「ああ、勘当された、もう会えない。」という風にとらえられる方も多いですが、当時は武家社会だったため、家督相続権(戸籍の長であることを示す権利です)を失い、社会的身分・経済的基盤を一切失ってしまうことを意味しました。

 

また、池上兄弟の父は、長男である宗仲のみ勘当し、弟の宗長は勘当しませんでした。これには、弟が信仰をやめれば兄が本来受けるはずであった家督相続権や父の遺産など、すべてを受けることができると誘惑するためでした。

 

日蓮大聖人は、この池上兄弟の状況を知り、池上兄弟と、その夫人たちに繰り返しお手紙を認められ、父の兄弟に対する扱いはあくまで「日蓮仏法が正法であるがため」、つまり正しい信仰をしているがために父を通して難が起こるのだ、と断言しています。

 

また、三障四魔が起こるのは、今まで正法である日蓮仏法を信じてきたためであり、この難局を乗り越えて信心を深めるために難が起きているのだ、と池上兄弟を励ましました。この兄弟抄が送られた後も池上兄弟は父から二度も勘当を受けていますが、最終的にはその父も日蓮仏法に帰依することができたのです。

この御文は、日蓮大聖人が門下たちに伝えたいことは、ただ一つ。

 

「絶対に三障四魔を前にして敗れ去ってはいけないのだ」

 

ということです。

 

では、その三障四魔はどのようなときに目の前に起こるのか。それは今回の御書の英語版を拝せばよりわかりやすいです。

(中略) As practice progresses and understanding grows, the three obstacles and four devils emerge in confusing form, ... 

 最後に強調した、in confusing form というものがポイントです。confusingというのは直訳すると「混乱させる、惑わせる」といった意味があります。たとえて言うと、なんだか今日は体がだるいから会合に行きたくない、お題目をあげたくない、会社に行きたくないな、となんとなく感じてしまうことです。池上兄弟の例をとると、父親からの勘当がありますが、より実生活に伴って言うならば、会社で上司が急に冷たくなった、怒りっぽくなった、といったものです。

このような現象を原因がわからず、環境のせいにして何も行動をしないのか、それともこういった現象を前にして「ここで私が成長をするチャンスなのだ」と確信を深めて自分を成長させていくかで、その先の人生はより明るいものとなっていくのではないでしょうか。

そういった現象を、三障四魔が競い起こったことに気付ける智慧・現実を受け止める勇気を自分の心の中から引き出せるのが「祈り」です。

最後に、アメリカのSGI-USAで機関雑誌として発行されているLiving Buddhism紹介されている方の体験を通してこのエントリを終わりとしたいと思います。

Praiyer is the courage to persevere. It is the struggle to overcome our own weakness and lack of confidence in ourselves. It is the act of impressing in the very depth of our being, the conviction  that we can change the situation without fail. Prayer is the way to destroy all fear. It is the way to banish sorrow, the way to light a torch of hope. It is the revolution that rewrites the scenario of our destiny. (Daisaku Ikeda)

祈り――それは、あきらめない勇気だ。
自分には無理だと、うなだれる惰弱さを叩き出す戦いだ。“現状は必ず変えられる!必ず!”確信を命の底に刻み込む作業だ。
祈り――それは、恐怖の破壊なのだ。悲哀の追放なのだ。希望の点火なのだ。運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。(池田大作)

祈ることと願うことは違います。

30年間、目の前の夫の幸せを祈り、ついに夫を入会させた夫人が大歓喜を語っていました。現在は平成28年ですが、平成生まれの子たちがまだ生まれていないときからずっと祈ってきて、ようやくそれが叶った時の歓喜は何にもくらべものにもなりません。願うことは一瞬で終わりますが、祈ることは現実に自分がその状況を打開するためにどうしていくのか、といった行動が常に伴います。

祈りを継続させて、自らを成長させていきましょう。